多様性。

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アイスは冷たく笑う。

過激な表現をしてしまっています。気を悪くされる方もおられるかも知れません。
考え方として偏っているとは思いますが、ひとりの考え方として受け止めていただければと思います。
ご理解いただいた上で、読んでいただけると幸いです。

 


 

東京オリンピック2020が終わり、パラリンピックも閉会を迎えました。

コロナ禍において開催を懸念していた国民が多い中でしたが、メダルを獲得した日本人選手、つまり地球人口78億5000万人中の3人に入った人が、とても多かったです。

日本人として誇らしく、やる価値があったと思えました。選手はもちろん関わった方多くの方々、感動をありがとうございました。

 

ただ私にとって、引っかかることがありました。それは「多様性」という言葉です。

 

なぜパラリンピックが多様性の象徴のようになるのか、腑に落ちないところがあるのです。

多様性とは、

幅広く性質の異なる群が存在すること。

です。この言葉で説明すると、オリンピックとパラリンピックが多様性と言いながら、別々に開催することに違和感を感じます。
(一緒にするのは、無理があるということも理解はしているつもりです。)

世界が一堂に会して行われるスポーツ競技大会の中に「オリンピック」と「パラリンピック」という分類を持つわけです。

 

多様性とは、そういうことなのでしょうか?

 

うまく言葉にできませんが、なんとか伝えたいです。
人間には「好き」「嫌い」の感情があります。

例えばいわゆる健常者同士で、目の前に、自分のことしか考えない、人付き合いが下手な同僚がいたとします。
多くの方が苦手意識を持って接するでしょう。

では、その人が実はアスペルガー症候群であったと知った場合、その後どう対応しますか?

「そうか。アスペルガー症候群だから、もっと広い心で接しないと」と、思ってしまってはいけないと思うんです。

分類をしたが故に、対応が変わるのは一人ひとりが互いを認め合う多様性とは、異なるように思うんです。

もっと本質的に、優しく思いやりを持って、"そもそも"接するべきなんだと思うんです。

 

世界や国や団体が区別したまとまりに左右されることなく、自分なりの考えと価値観で関わるべきなんだと思います。

時には、距離を置く気遣いもあるでしょう。
時には、拒絶する感情も有りでしょう。

 

そういうものすべてが"多様性"なんだと思うのです。

ただ、差別や侮辱をするのはまた違います。それは人格否定であり、自分の価値観の押し付けです。多様性を考え出すと、それすら"多様性"になってしまいそうです。

 

「多様性」という言葉をどう理解すべきか、まだ着地出来ていませんが、いろんな方の考えを聞いて、ゆっくりと自分なりの答えに近づけていければいいなと思います。

 


 

頭がねじれそうな難しいことを書きましたが、私の「好き」が雑誌になりました。

「ころんでも ころんでも 一人で起っきできる強い子になってくれると・・・・・
おばあちゃんとっても安心なんだけどな」

漫画ドラえもんで、のび太のおばあちゃんが、まだメガネを掛けていない幼いのび太に対して発する言葉です。これにのび太は、

「ぼくダルマになる やくそくするよ おばあちゃん」

そう告げて、目の前のことに向き合い始めます。

起き上がりこぼし(作品ではダルマ)を手にした藤子・F・不二雄が、ドラえもんを思いついた瞬間だと言われています。

「強いとは、優しいに似ている」そう思った瞬間でした。

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