ff。

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くにがとカッターと神海丸と。

7月は海洋訓練月間でした。
海洋訓練とは、"カッターボート"という元々は救命艇だった大型の手漕ぎボートを、炎天下の中3日間漕ぎ続けるという超過酷な実習です。

例年であれば、学校に寝泊まりし食事の支度も生徒・教員が行い、学校関係者全出動で行う1年生対象の伝統的な行事ですが、新型コロナウィルスの影響で昨年は行えず。
今年になって宿泊なしの規模縮小版で、1年生3日間、2年生3日間(昨年行えなかったため)と教職員は計6日間のイベントとなりました。

記録係として参加した私は、カッターの上から、橋の上から、岸壁から、ドローンを使って、と色々な形で思い出を残しました。

それだけでもクタクタになったのに、高校生はよくやるなぁと感心するばかり。

しんどいことはみんな嫌なので、海洋訓練前は「いやだー」の連発でしたが、終わってみると「達成感って本当にあるんだ」と感想を残した生徒もいました。

"楽"と"楽しい"は違うということを学びとれたようで何よりです。

 

さて、タイトルの「ff」。
音楽でいうと「フォルテッシモ」非常に強く。
数学でいうと「255」色を表すRGBでも有名な16進数。

でも今回は、

ファイナルファンタジー

です。

そもそも大してゲーマーでなく、ドラクエ派だったので、記憶にはほとんどないです。
スーパーマリオRPGで隠しボスとして登場したり、チョコボのBGMが好きだったり。

最大のイメージは、社会人になってできた親友の中学生時代の話。
彼の家は厳格で、ゲームをすること自体が禁止されていました。でも友人宅で遊んだFFにどハマりし、隠れて家ですることを企てます。タンスの引き出しの底を抜き取り、長年貯めたお年玉でテレビとプレステを買い、収納式のゲームセット("ゲーム箪笥"とでも称しましょうか)を作成。
もちろん配線が必要なので、箪笥の裏に穴を空け、コンセントを覆うように箪笥を配置し、家族にバレずにFFを楽しんでいました。

でも母親というものはすごいもので、異変に気づきました。
テレビ(当時ブラウン管)とプレステが狭い箪笥の中に入ってるものだから、熱を帯びると異臭がしていたんですね。
ある日、そんな異臭にも気づかずひとり楽しくFFをプレイしていると、2階へ駆け上がってくる足音がしました。慌てて収納する(隠す)も間に合わず、部屋に入ってきた母親と目が合った瞬間に、窓枠に手と足をかけ地上めがけて飛び降りました。彼の部屋が2階だったにも関わらず、です。裸足のまま宛もなく駆け出したものの、逃げたところでどうしようもないことに気づき、トボトボと家に帰ることに。

このあと彼がどうなったかは、ご想像におまかせします。


さて、そんなイメージがガラッと変わったのがこちら。
(いや、どんなイメージやねん!ってツッコミたくなりますね。)

 

なんとこの映画、原作は一般人のブログです。
ブログが話題を呼び、書籍化され、ドラマ化され、映画化までされていました。

これだけ有名なのに1mmも知らなかった自分に驚きです。
情報への感度が鈍ってきてるんでしょうか。

 

物語は仕事一筋だった父親が単身赴任先から、急遽仕事を早期退職し帰宅するところから始まる。口下手な父親と上手くコミュニケーションを取りたいと思った息子は、退職祝いと称してファイナルファンタジーXIVをプレゼントする。オンラインゲーム内のキャラクターを介して父親の思いを知ろうと近づく息子。そうとは知らずオンラインゲームという新たな世界で、仲間の大切さや、仲間一眼となって敵を倒したときの喜びに、すっかりのめり込む父親。
家族の絆がFFを通して再構築されていく。そして最後には衝撃の事実が・・・。

 

ゲームに興味がない人からすれば、面白くもなんともないと思われそうですが、侮るなかれ。
笑いあり、涙ありの感動作です。

 

そして一番感動したのは、この企画自体。
ある意味1時間54分のCMと言っても過言ではない。
実在するゲームと映画がこれだけ融合したものが他にあるだろうか。

映画好きでCM好きとしては、たまらない企画です。
これを観てFFを始めた人も多いのではないでしょうか。
映画を観る人も、ゲームを作る人も、プレイする人も、関係するすべての人が幸せになれる素晴らしい企画だと思います。

いつかこんな企画ができたらいいな、とぼんやりひとつ夢ができたような気がします。

 

最後に前回に続き繕う話をば。
割れた100円の皿を、360円の接着剤と100円のマステで修復。
100円の皿が、560円の皿になりました。
でも何となく、モノは大切にしたいんですよね。

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つくろう。

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左:◯◯◯ケース 中央:時計 右:パン

お久しぶりです。
なんやかんや慌ただしい日々を過ごしていると、気づけばセミが元気に鳴いていました。
下書きで未完成のままだったブログに手を入れていきます。


 

久々に何か"作ろう"と思ってた矢先、スマートウォッチのベルトが切れました。切れたことにも気づきません。気づいたら左手から無くなってた、そんな感じです。

どこに行ったか家の中をウロウロ探すと、畳んだ布団に切れたベルトと共に本体部分が挟まれていました。

ジュンテンドーで新しいベルトを買おう!そう思いました。

が、待てよ。と留まるのが、私です。


兵庫の北部、吉田カバンの発祥地で知られる豊岡へ旅行に行ったことを思い出しました。あれは確か月曜日だったか、ほとんどの店が閉まっている中、開いていたお店を見つけました。そこは、ご主人手作りの革雑貨が所狭しと陳列された小さなお店。クオリティから想像できる制作時間を考えると、決して高いものではないとは理解できても、手にするには躊躇するようなお値段の品々が店内を埋め尽くしています。その店の片隅に無理なく買えるお値段を掲げていたのが、単なる革でした。革細工の経験はゼロでしたが、素材好きなのか何の計画もなくその革を買い、そのまま数年使われることなく、荷物になることを承知の上で隠岐まで持ってきていました。

 

日の目を浴びるときが来た革。手元にあったハサミとデザインナイフでやってみました。
専用工具や材料がある革細工ですが、千枚通しで穴を空け、百均のソーイングセットで縫い付けました。
それが、冒頭写真の真ん中です。

しかし、そこはやはり素人。それから2週間ほどして、ベルトの穴が伸びてきました。
革が薄いからか、処理が必要なのか。その謎を考え続けるのもまた楽しいものです。


右のは、これまで何度か作った食パンです。
そろそろ感覚で攻めたいと思い、ほぼ忘れたレシピときっとこうすれば良くなるというイメージで作ってみました。エイヤートーなので、何が悪かったかも判断できませんでしたが、膨らみが少し足らず。でも自分で作ると何故か美味しいものです。

 

続いて左のケース、実は・・・

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バターケースです!(写真がボケてるのは酒の力によるものです)


材料は頂いた木と、竹串だけです。
食品の入れものは初めて作りました。釘やボンドを使うのは憚られるなと考えながら、木材を切ったあと「そうや!」とひらめき、台所から竹串を持ってきました。
竹釘は古く昔から使われていたものですが、ポキっと折れるイメージから不安がありました。が、物は試しとやってみました。

思った以上に締結されます。
というか壊す以外の方法では、取れません。

このバターケースのいいところは、ケースの上でバターをカットして使えるところ。
市販品を買うとスタイリッシュなものが手に入りますが、結構贅沢ですよね。
でもプレゼントにはぴったりかも。 

 

なんだか取り留めのない文章になりましたが、

  • イメージだけ作る革細工
  • レシピ通りじゃなく感覚で作る料理
  • 不安を持ちながら試しにやってみる木工

こんなことを重ねていくと、不安を安心化する能力が身につくのかなと思います。
自分で自分の生活を"繕う"余裕ってすごく大事だなと、しみじみ思いました。

そして、
完成をイメージできてなくても、計画性がなくてもやってみれば何とかなる!

そんなことを「子どもたちに伝えたい」と元教育者としての血が騒ぎました。



最後に、絵本の「ミッケ」って知ってますか?

 

”かくれているつもり。”

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学び。

 

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隠岐で最初に手にしたかも!!

いま久しぶりにドラマを観てます。

このブログはちょっと長いですが、いやいやでも読んでほしいです。


前に観たドラマは『私の家政婦ナギサさん』です。多部未華子さんと大森南朋さんの掛け合いが最高でした。たぶん家政婦に興味があるのかもしれません。そして、あいみょんが耳から入り、心に届きました。

いま見ているドラマは、全然ジャンルが異なります。
「わたナギ」がセンチメンタルであるなら、いま見ているのはアグレッシブです。

 

そのドラマは『ドラゴン桜2』です。

 

同僚に、放映されてからその存在を教えてもらい観始めたので、最初の方は観ていません。

でも実は、
隠岐で高校魅力化コーディネーターというわかりにくい仕事に就いたとき「教育ってなんやねん!」と思って、『ドラゴン桜』の第一シリーズを観ました。

 

観られていない人に簡単に説明すると、東大には到底届かない私立高校から東大生が生み出されるストーリーです。その私立高校には経営難という大きな壁があり、なんとか立て直すために破天荒な、教員でもない弁護士を雇い"東大を目指す"という離れ業を見える形にした物語です。ちなみに原作は漫画です。

 

これまでの『ドラゴン桜』を観られてる方はお気づきかと思いますが、

東大を目指すことは"手段"でしか無いのです。

 

なんの手段か。それは学校も生徒も"大きな壁を乗り越えるため"の、です。

「目的と手段を間違えるな」とは、よく言わる言葉です。ボク自身も、社会人になって6,7年目でしょうか、おにぎり頭の大先輩に言われました。

 

なんか「目的と手段」って言われると難しいですよね。

そう思ったときいつも思い出すのが、前職で働きながらこっそりやってたバイトです。大阪の二色浜という海水浴場で「手ぶらでBBQ」を提供する会社で週末働いていました。

そこの店長はサーフィンがものすごく好きで、アメリカの西海岸まで行っちゃってた人でした。そこの店長になる前は、プロ並みの腕前と人脈を持ち、大阪でサーフショップを経営していた人でした。

アメリカの西海岸には、多くのサーファーが集まるようです。でもそこで見た風景は日本のそれとは大きく違っていたと話してくれました。

 

お世辞にもスポーツをするようなお父さんではなく、LOVEマクドナルド的なお父さん、そしてお母さんと子どもが2人浜辺にいました。サーフボードをみんな持っていたようです。お父さんが海に向かって駆け出します。ボードを浮かべ、沖にまで漕ぐのはいいものの、そこからボードに立つのは難しかったようです。

でも、ここで日本人と違うのは、

みんな幸せそうに笑っているのだそうです。

 

日本ではなかなか出会わないシチュエーションです。

日本の大人は、出来ることを極めることに美学を持っています。
それは文字通りとても美しいことです。
その反面、「出来ないことに手を出さない」ネガティブな面も持ち合わしていると思います。

 

そして、この「出来ないことに手を出さない」の前には、『自分の』という言葉が隠れています。(子どもに使う場合「手を出させない」もあるかもしれません。)

一度きりの人生なのに、出来ないことを決めるってもったいなくないですかね?
たぶん、出来ないことが"悪"とされる教育がそうさせているだと思います。

さらに、「出来ない」の前には『今』という言葉が隠れています。

日本の評価教育では今できないことが、ずっと引き継がれるんです。

 

例えば、小学校の社会の授業。文字を覚えるのが苦手な子は100%社会が苦手になります。
社会科の本質は年号を覚えることでもなく、歴史上の人物の名前を覚えることでもありません。

①歴史がどう動いたかを②人を通じて、学ぶことです。

この①②の順番が大切です。逆ではダメだと思います。

その歴史をいかに今と重ねて、これからどうしていくかのヒントを得ることが最も重要なはずです。

でも、いまの評価社会ではそうはいきません。悲しいですね。

 

この例えはボクの経験則です。だから「歴史」と言われると抵抗を感じます。
でも大人になったボクはこの経験をもとに、自身と周り人の教育の糧にしています。いわゆる反面教師です。新しいことを取り込むときに、(自分を含めた)周りの人に抵抗がないように働きかけ、目的を見失わずに導きたい、そう思っています。
(と、偉そうなことを言ってますが、結果はついてきてません。笑)

 

 

長くなりましたが、最後にもうひと付き合いいただければ。

先日隠岐の島町小中学校のPTA役員会で、植松努さんの講演会のPRをさせてもらいました。そのために各小中学校の教育目標を調べたのですが、これが面白かった。
みな例外なく、「心・技・体」なんですね。

順番にも意味があるはずですが、「なかよく」「(自ら)学び」「たくましく」はほぼ同じなんです。

 

で、考えてみたんです。何のために小中学校の目標ってあるんだろうって。

誰もこの6年間と3年間を、学校目標達成のために生きていないです。

で気づいたんです。この各校の目標の前にはきっと「大人になっても」という言葉が隠れているんだと思います。

大人になっても「なかよく」

大人になっても「自ら学び」

大人になっても「たくましく」

そのための準備段階に小中学校があるんだと思います。

 

大人になった皆さん、この3つ胸をはって子どもたちに伝えれますか?

ボクには無理ですね(笑)

となりの。

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自宅を望む景色。いつも家に帰るとき「壮大だな」と思います。

歳を重ねると、涙もろくなる。よく聞きますが、今朝これを実感しました。

随分前に「暇つぶしにいいよ。」とBuzzVideoというアプリを友人に教えてもらいました。

今日はもう何も考えない!と思ったときに、ここにある動画をぼーっと眺めています。

 

今朝は、なんとなく早く目が覚めたので、立ち上げて観てました。

そこで出てきたものにとても心打たれました。

 

タイトルを見て「なんや、フラッシュモブか。」と思いながら再生。知ってるフラッシュモブには感動もあるけど、押し付けがましさを感じてイマイチ賛同できないのです。

しかしこれは違うかった。

 

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急にそこらへんにいる人がとなりのトトロを演奏した結果、【面白】

https://share.buzzvideo.com/s/TpFembN

 

01:05 子どもが走って集まってきます。

そして03:18には・・・。

 

 

新型コロナウィルスが変異し、さらに生活に緊張感が高まってきました。
「ソーシャルディスタンス(Social distance)」という言葉が当たり前になりましたが、直訳すると「社会的距離」になります。

この言葉好きじゃない。

日本語で言う"社会的"って、個の"心理的"の集合体という意味を含んでいるような気がするからです。

「フィジカリーディスタンス(Physically distance)」の方がボクにはしっくりくる。直訳すると「物理的距離」。

 

見えない脅威に心がすさみ、ボクの理解する"社会的"距離が生まれないことを心がけたいです。

けんと剣。

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特に隠岐は売上がパナい!!

今回は、隠岐の宣伝から入ってみます。
大阪時代、漁師とのつながりが皆無だったボクは、隠岐に来て漁師がすごく儲かる職だということを知りました。しかしその知識は誤っていたようです。

一般的に漁師は、すごく大変な割にそんなに儲からないようです。

正しくは「"隠岐の漁師"はすごく儲かる」です。

漁場が桁違いに豊かだからですね。少しずつそんな情報もお伝えしていきたいと思っています。

 

さて突然ですが、

「タキシード着てさ、付け髭つけてさ、投げたみかんをナイフでキャッチするって面白くない?」

これ誰の言葉かわかりますか?

若い年代の方でも一度は目にしたことあるだろうコレを作った人です。

そう、今は亡き志村けんさんです。

ボクがまだ子どものころは、加トちゃんとケンちゃんがたくさんテレビに出ていて、おじさん2人が繰り広げるしょうもないコントに笑い転げていました。

 

ヒゲダンスを加藤茶さんに提案したときの言葉が、冒頭の言葉だそうです。
この話を知ったとき、よく実現したなと思いました。

なぜなら、

 

全然面白そうじゃないから。

 

でも、全国民を魅了するぐらいの伝説のコントになりました。

 

そして何度かボクのバイブルとして紹介してきた「座右の寓話」を思い出したのです。
『像と鎖』というタイトルの話です。

 象使いが象に最初に仕込むのは、逃げ出そうという気持ちを起こさせないことだ。
 象がまだ赤ん坊のとき、その太い足に太い丸太を鎖でつないでおく。そうすると、逃げようとしても丸太が足かせになり、逃げられない。あきらめるようにしておくのだ。
 次第に象はこのとらわれの状態に慣れてしまい、逃げることをあきらめるようになる。
 大人になって巨大な体と強い力の持ち主になっても、足に鎖を巻いておきさえすれば、象は決して逃げ出そうとしない。たとえ、鎖の先に小さな小枝が結んであるだけでも。 

この話に出会ったとき、

「なるほど。調教とはこういうことか。"教育をすること"と"調教をすること"。その違いは一体なんだろう。」

そう思った記憶があります。

でもこの本の面白さは、そのあとに書かれる解説にあります。
細かなことは書けませんが、キーワードだけ紹介します。それは、

「行動しないリスク」

です。
※ 気になる方は、ぜひ図書館や本屋さんで手にとって読んでみてください。

 

「タキシード着てさ、付け髭つけてさ、投げたみかんをナイフでキャッチするって面白くない?」

これを聞いて、

①「そんなもんおもろないし、お客さんなんて誰も喜ばんわ。」
と失敗を恐れ、自分の想像の範囲内で行動範囲を決める。

それも一つの選択です。

②「まぁ、けんの言うことだしやってみるか。」
とやってみて、お客さんの反応を確認してから決める。

これも一つの選択です。

 

本の中では、「私たちは行動しないリスクから目を背けがちだ」と解説されています。

 

自分の周りの人が、何かやってみたいと言ったとき、
「行動しないリスク」を取らせるか、「行動するリスク」を取らせるか。

その人が「何かやってみたい」と教えてくれたのは、きっとあなたを信用しているからです。少しでも応援してくれると思ったから、勇気を出して伝えてくれたんだと思います。

 

勇気を出し合える関係がもっと増えて、応援してくれる人がもっと増えれば、みんなが幸せに近づけるんじゃないかなと思います。

 

 

そんな加トちゃんケンちゃんにバッチリ影響を受けたボクは、2017年に真似事をしています。

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2度失敗の後の成功に、喜びで自然と出たガッツポーズ。

ちなみに顔が黒いのは、この前にラッツアンドスター「め組のひと」を提供したからで、サンタの帽子をかぶってるのは、忘年会だからです。

 

小さな忘年会でボクをヒーローにしてくれた志村けんさん。
大変遅れましたが、最後の最後まで国民に優しさを与えてくれた気がします。
こんな場で失礼ではございますが、ご冥福をお祈りします。

よぉ、相棒。

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2014年12月3日午後8時。

 

「川上くん、犬いらん?」

数日前に会社のパートさんから、そう言われました。

彼女は警察官の友人をもち、迷子になっていたミニチュアダックスフンドの飼い主が見つからず困っていると相談を受けていたそう。

一般的に警察での保護期間は3ヶ月。そのダックスは間もなく満期を迎え、処分されてしまうとのことでした。

たぶん世の中には、こんな犬がたくさんいるだろう、この1匹だけ助けてもただの偽善者になるんじゃないか。そんな思いを持ちながらも、身近で起こることは避けたかった。

自分勝手な考えで引き取ったのが、この日です。

 

あれから6年と約5ヶ月。日数にすると2341。

毎日布団で一緒に寝て、

一緒にご飯を食べ、

帰りが遅くなったボクを快く迎えてくれ、

会社のみんなと花見をしたり、

一緒にキャンプをしたり、

たくさんの思い出が出来ました。

 

最後までトイレは覚えてくれなかったけど、もうおしっこの処理をしなくていいと思うと、あれだけ面倒だったことが、今はやりたくてたまりません。

 

元気だった頃、よく腕や足や顔をペロペロしてきました。ダックスの長い鼻、口の特徴から、なんとも言えない口臭がまとわりつきます。もうそのにおいを嗅ぐことが出来ないのは、悲しくて悲しくてたまりません。

 

2021年5月1日、我が家の花子は長い旅を終えました。

 

たくさんの人にお世話になりました。

岡山への長期出張で、同行が出来なかったとき、快く預かってくれたKちゃん。

ケージがなくて困ってると話すと、わざわざ家まで持ってきてくれたOさん。

腫瘍ができ、弱ってる花子を助けてくれた獣医のY先生。

まだまだ他にもたくさんの方が花子に優しくしてくれました。

 

これまで可愛がってくださった皆さまに飼い主として感謝申し上げます。

ありがとうございました。

 

そして亡くなったことを報告したら、わざわざペット葬儀屋まで足を運んで支度をしてくれたWさん、優しさに心が震えました。

感謝してもしきれません。本当にありがとうございました。

 

最後に、友人から届いた「虹の橋」を紹介します。想像すると笑顔になり、涙するような温かい詩です。

http://fukufukuyama-petsougi.com/wp-content/uploads/2017/09/d098aadd83a09f68e41404e0bf5f19fa.pdf

ふくふくやま様ページより

辞任。

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全部揃ってる。家から5分。

 ずっと引っかかっていた言葉がありました。今日溜飲が下がった気がします。

「責任」という言葉。

何を思い浮かべましたか?

 

「責任取れよ!」

「責任を取って辞任します。」

「どう責任取るつもりですか?」

 

など、
始めたことが、ある区切りで他人から言われる(他人に言わされる)批判的な言葉になっている気がします。

これだと出来るだけ責任がないように生きたほうが良い、そう思えてきますよね。
責められるのは、みんな嫌ですから。
でも本来の「責任」ってそうではないと思います。進んで自らの責任にすべきものです。

 

自分の人生に何かしらの影響がある以上、すべて自分にも責任はあります。
"自分の人生に何かしらの影響がある"と考える範囲は人それぞれだとは思います。

 

ただ例えば、文句が出るということは自分に影響があるということです。
それを誰かが助けてくれると思っているのは、変じゃないですか?
私は文句だけ言う人を、助けたいとはあまり思いません。みんなも同じだと思います。

 

文句を言うことが悪いことではないと思っています。たまには仕方ないです。
でも、文句しか言わないのは、気持ちいいものではありません。

例えば、

「これどうすんだよ!責任取れるのかよ!」

なんて言っちゃう人は、自分は責任の範疇外、つまり無関係な人に成り下がろうとしてしまっています。

自分の人生の一部なのに、無関係でいいのかなと思います。

さらに言われた人だけが、すべてを解決しなければならなくなってしまいます。
でも問題は、みんなで解決したほうがいいに決まっています。

"〇〇責任者"という役職があっても、みんなで考えたほうがたくさんの解決策を見出だせます。
「責任」には「取る」より「果たす」方が似合ってるな、と気づきました。
これで引っかかりが取れたんです。

 

大好きな本「座右の寓話」にこんな話があります。

『悪者ぞろいの家』
この家は悪者ばかりです。その隣の家は善い者ばかりです。
でも喧嘩しているのは、いつも善い者ばかりの家です。なぜか。
悪者ばかりの家は、みんな自分を悪者扱いします。
でも、善い者ばかりの家は、みんな自分を善い者扱いします。

花瓶が割れた。

「私の、不注意でした。」
「いや、私がそんなところに置いたからだ。」
「僕が割れやすい花瓶を買ってきたのが軽率だった。」

などと、自分を悪者にします。
ちょっと偏ってるかもしれませんが、これが「責任」じゃないかなって思っています。

 

そうすれば、もっとみんなが気楽に優しくなれるような気がします。

 

※ 植松さんの本読みすぎて、文面が植松さんに寄ってきているかもしれないのは、きっと気のせいです。笑